#1 #2
#3
ちりんちりん。
どこかで鈴の音がするたび、わたしは背すじをぴくりとさせる。
でも、わたしには震わせる肩がない。よじり合わせる膝がない。汗ばんで握りしめる手のひらもない。
わたしが居るのは、床に置かれた一枚の、丸い大きなお皿の上。
お皿の直径は一メートルぐらい。そこにわたしは、すっぽりとおさまってる。仰向けになって。
だってわたしには、そこからはみだすものがない。
わたしの細い腕も、白い脚も、今はきれいな瓶のなか。ホルマリンに抱かれてぷかぷか浮いてる。
ちりりん、ちりん。
ここは地下室。とっても静か。鈴の音がするのはどこ?
重い扉は、今日は開けっ放し。そのむこうに階段が見えてる。
階段を上ると台所、わたし知ってる。
台所を抜けると玄関ホール、わたし知ってる。
玄関の扉には、きっと鍵が掛かってる。でも内側からは簡単に開くの、わたし知ってる。
でもわたしには、階段を上る足がない。ドアノブを握る指もない。
玄関の脇には下駄箱があるの、わたし知ってる。
でも、そこにわたしの靴はないの。
ちりん、ぱたぱた。
鈴の音が一つ、階段を駆け下りてくる。脚があるのね。
地下室の床を駆け回る。元気いっぱいね。
ちりちりん、ちりちりん。
黒くてしなやかな、立派な猫。青い眼がわたしをのぞきこむ。
お皿の上に伸ばした首を、軽くかしげて見下ろしてる。
息をのみ、震えてるわたしの顔を。
薄暗い地下室。瞳孔がまんまる。
ねえ、わたしの方が、ずっとずっと大きかったの、背が高かったのよ。
でも、わたしには立ち上がる脚がない。この子の喉をくすぐって、ごろごろ鳴らしてやる指もない。
ふんふん、すん。
黒豹の鼻が、わたしのにおいを嗅ぐ。
黒豹のひげが、わたしのまつげに触れる。
にやーごう。
真っ赤な口が耳まで裂けて、白い牙がのぞく。わたしの目の、ほんの三センチほど上で。
びくんと震えたわたしの乳房を、豹の素早い前脚が押さえる。
「ひっ!」
痛っ。
「くうう…」
爪立てちゃいやあ。
わたしは首をもたげて、はだかの胸をのぞきこむ。涙の滲んだ目で。
右の乳首のすぐ脇に、ぽつんぽつん。赤い点が二つ、赤いしずくも二つ。
ひりひりするよお。
でもわたしには、傷口を覆う手のひらがない。血をぬぐい取る指がない。
ふーっ、ふうううっ。
悲鳴に驚いて飛びのいた猫が、毛を逆立ててこっちを見てる。
「…みゃ、みゃあ」
わたしはそっと鳴いてみる。
ふーううっ。
「みゃあ」
あなたの方が、ずうっと強いの。いじめないで。
「みゃああ」
お願い。
「みゃああ」
ふくらんでた尻尾が、ゆっくりと、少しづつしぼんでく。
「みゃあ」
乳首がじんじん痛む。わたしが鼻をすすり上げると、猫もすんすん。そろりそろり、近づいてくる。
「みゃあ、みゃあ」
わたし、あなたになんにもしない。なんにもできない。なんにもしない。
にあーご。
「みゃあ」
にあーごう。
「みゃあ…」
熱い息がわたしの首筋にかかる。細いひげがわたしの顎をくすぐる。冷たい鼻先がわたしの鈴をつつく。
ちりん。
ほら、ね。わたしもあなたと一緒。おんなじ鈴をつけてるでしょ?
「みゃう、あんっ」
ざらざらした猫の舌が、傷口を、わたしの乳首を舐め上げる。
「あ…」
ありがとう、気持ちいい。でもそっとね。
抱きしめて、喉をくすぐってあげたいけど。
わたしの腕は、きれいなガラス瓶のなか。ホルマリンに抱かれてゆらゆら揺れてる。
* * *
ちりん、ちりりん。ぱたぱた。
鈴の音が遠ざかってく。
わたしはほっと息をつく。
でも、なんだか少しさびしい。
わたしはまた、地下室にひとり。床の上にひとり。丸いお皿の真ん中にひとり。
身につけてるのは、鈴のついた、赤いきれいな首輪だけ。
地下室には大きなテーブルがある。
テーブルというより、脚のある箱。
何なのかわからないけど、ステンレスの箱。
何なのかわからないけど、電気コードがついてる。
何なのかわからないけど、蛇口がついてる。
蛇口は三つ、わたしの真上。取手がないのはなぜかしら。
高さはわたしの腰くらい、ううん、今のわたしの身長くらい。
背は高いほうだったの、以前は。
バレーボールしてたことあるの、以前は。
エースなんかじゃなかったけど。
レシーブで擦りむいた膝も、ブロックで突き指した指も、今はゆらゆら、瓶のなか。
思い出といっしょに、ホルマリンのなか。
ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ。
わたしは思わずびくっとする。
ごはんが炊けたみたいな音。炊飯器やレンジのタイマーみたいな。
蛇口のあたりで鳴ったみたい。
ちりちりちり、ちりちりちり。
ぱたぱた、ぱたぱた。
またあの猫が駆けてくる。あ…。
こんなにたくさん、お友達?
黒豹より大きな虎がいる。眠そうな目をした三毛がいる。ペルシャから来たひと、毛がふさふさ。
みんなおんなじ鈴をつけてる。
違った。
まだちっちゃな可愛い子猫が三匹、誰の子かしら。この子たちには鈴がない。
階段下りるのに、時間がかかったのね。
ちりちり、ちりん。
みんながわたしをとり囲む。
わたしは首を起こして、きょろきょろ。何がはじまるの?
さっきのひとは、わたしの左。黒豹さん、あなたが連れてきたの?
「みゃあ」
わたしも、お友達よね?
にあーご。
「みゃあう」
ひどいこと、しないよね?
「みゃああ、ひゃっ!」
冷たいっ。
何かが顔に降ってくる。胸にも。下腹のあたりにも。
「きゃっ、きゃうう、きゃん」
くすぐったい、くすぐったい、やめてやめて。
猫たちがいっせいに、わたしのからだを舐める。
ぽたぽた、ぽたぽた。
これはミルクね、すごく冷たい。ごはんの知らせに集まったのね。
でも、お皿に溜まるまで待って、待って、よお。
さっきから、わたしはからだをよじりっぱなし。
でも、みんなぜんぜん気にしてくれない。
こんなに声をあげてるのに。
ぺろぺろ、ぺちゃぺちゃ、ちりんちりん。
みんなはお食事、わたしは運動。鳴ってる鈴は、わたしのだけね。
耳元でごろごろ音がするのは、首筋を舐めてる虎さんの喉。
ああ、ああ。
黒豹さん、そこはすごくくすぐったい。むかし、脇の下だったとこなの。
ペルシャのひと、そこもだめ、お願い。脚があったとこは、内股の肌なの。
そんなにされたら…。
三毛のひとの舌が、乳首を撫でる。
ああみんな、みんな、もうやめて。
だれなの、そんなところを舐めるのは。
ああ子猫たち、わたしの、恥ずかしいところに群がって。
ミルクが毛の間に溜まるのね。
おなか空いてるの、わかるけど、あああっ。
そこはだめ、だってば、ああっ。
ああもうわたし…。
むかし一度だけ、イっちゃったことある。
自分でやったの、一度だけ。
あとで少し怖くなって、それっきり。
そのとき使った指先も、力が抜けちゃった両脚も、今はゆらゆら、瓶のなか。
思い出といっしょに、ホルマリンのなか。
もう、からだに力が入らない。
イきそうになるのに、イききれないの。
ちょっとだけ強すぎたり、弱すぎたり。もう少し右だったり、左だったり。
冷たいミルクのぽたぽたが、あと少しのとこで邪魔するの。
ぺちゃぺちゃ、ぺろぺろ、ぺちゃぺちゃ、ぽたぽた。
気持ちいいの、もどかしいの、頭のなか、真っ白。
わたしには腕がない、脚もない。お皿の真ん中で、ただもだえてる。
みんなのおなかが、いっぱいになるまで。
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