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 ちりんちりん。
 どこかで鈴の音がするたび、わたしは背すじをぴくりとさせる。
 でも、わたしには震わせる肩がない。よじり合わせる膝がない。汗ばんで握りしめる手のひらもない。
 わたしが居るのは、床に置かれた一枚の、丸い大きなお皿の上。
 お皿の直径は一メートルぐらい。そこにわたしは、すっぽりとおさまってる。仰向けになって。
 だってわたしには、そこからはみだすものがない。
 わたしの細い腕も、白い脚も、今はきれいな瓶のなか。ホルマリンに抱かれてぷかぷか浮いてる。

 ちりりん、ちりん。
 ここは地下室。とっても静か。鈴の音がするのはどこ?
 重い扉は、今日は開けっ放し。そのむこうに階段が見えてる。
 階段を上ると台所、わたし知ってる。
 台所を抜けると玄関ホール、わたし知ってる。
 玄関の扉には、きっと鍵が掛かってる。でも内側からは簡単に開くの、わたし知ってる。
 でもわたしには、階段を上る足がない。ドアノブを握る指もない。
 玄関の脇には下駄箱があるの、わたし知ってる。
 でも、そこにわたしの靴はないの。

 ちりん、ぱたぱた。
 鈴の音が一つ、階段を駆け下りてくる。脚があるのね。
 地下室の床を駆け回る。元気いっぱいね。
 ちりちりん、ちりちりん。
 黒くてしなやかな、立派な猫。青い眼がわたしをのぞきこむ。
 お皿の上に伸ばした首を、軽くかしげて見下ろしてる。
 息をのみ、震えてるわたしの顔を。
 薄暗い地下室。瞳孔がまんまる。
 ねえ、わたしの方が、ずっとずっと大きかったの、背が高かったのよ。
 でも、わたしには立ち上がる脚がない。この子の喉をくすぐって、ごろごろ鳴らしてやる指もない。

 ふんふん、すん。
 黒豹の鼻が、わたしのにおいを嗅ぐ。
 黒豹のひげが、わたしのまつげに触れる。
 にやーごう。
 真っ赤な口が耳まで裂けて、白い牙がのぞく。わたしの目の、ほんの三センチほど上で。
 びくんと震えたわたしの乳房を、豹の素早い前脚が押さえる。
 「ひっ!」
 痛っ。
 「くうう…」
 爪立てちゃいやあ。
 わたしは首をもたげて、はだかの胸をのぞきこむ。涙の滲んだ目で。
 右の乳首のすぐ脇に、ぽつんぽつん。赤い点が二つ、赤いしずくも二つ。
 ひりひりするよお。
 でもわたしには、傷口を覆う手のひらがない。血をぬぐい取る指がない。

 ふーっ、ふうううっ。
 悲鳴に驚いて飛びのいた猫が、毛を逆立ててこっちを見てる。
 「…みゃ、みゃあ」
 わたしはそっと鳴いてみる。
 ふーううっ。
 「みゃあ」
 あなたの方が、ずうっと強いの。いじめないで。
 「みゃああ」
 お願い。
 「みゃああ」
 ふくらんでた尻尾が、ゆっくりと、少しづつしぼんでく。
 「みゃあ」
 乳首がじんじん痛む。わたしが鼻をすすり上げると、猫もすんすん。そろりそろり、近づいてくる。
 「みゃあ、みゃあ」
 わたし、あなたになんにもしない。なんにもできない。なんにもしない。
 にあーご。
 「みゃあ」
 にあーごう。
 「みゃあ…」
 熱い息がわたしの首筋にかかる。細いひげがわたしの顎をくすぐる。冷たい鼻先がわたしの鈴をつつく。
 ちりん。
 ほら、ね。わたしもあなたと一緒。おんなじ鈴をつけてるでしょ?
 「みゃう、あんっ」
 ざらざらした猫の舌が、傷口を、わたしの乳首を舐め上げる。
 「あ…」
 ありがとう、気持ちいい。でもそっとね。
 抱きしめて、喉をくすぐってあげたいけど。
 わたしの腕は、きれいなガラス瓶のなか。ホルマリンに抱かれてゆらゆら揺れてる。

     *     *     *

 ちりん、ちりりん。ぱたぱた。
 鈴の音が遠ざかってく。
 わたしはほっと息をつく。
 でも、なんだか少しさびしい。
 わたしはまた、地下室にひとり。床の上にひとり。丸いお皿の真ん中にひとり。
 身につけてるのは、鈴のついた、赤いきれいな首輪だけ。

 地下室には大きなテーブルがある。
 テーブルというより、脚のある箱。
 何なのかわからないけど、ステンレスの箱。
 何なのかわからないけど、電気コードがついてる。
 何なのかわからないけど、蛇口がついてる。
 蛇口は三つ、わたしの真上。取手がないのはなぜかしら。
 高さはわたしの腰くらい、ううん、今のわたしの身長くらい。
 
 背は高いほうだったの、以前は。
 バレーボールしてたことあるの、以前は。
 エースなんかじゃなかったけど。
 レシーブで擦りむいた膝も、ブロックで突き指した指も、今はゆらゆら、瓶のなか。
 思い出といっしょに、ホルマリンのなか。

 ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ。
 わたしは思わずびくっとする。
 ごはんが炊けたみたいな音。炊飯器やレンジのタイマーみたいな。
 蛇口のあたりで鳴ったみたい。

 ちりちりちり、ちりちりちり。
 ぱたぱた、ぱたぱた。
 またあの猫が駆けてくる。あ…。
 こんなにたくさん、お友達?
 黒豹より大きな虎がいる。眠そうな目をした三毛がいる。ペルシャから来たひと、毛がふさふさ。
 みんなおんなじ鈴をつけてる。
 違った。
 まだちっちゃな可愛い子猫が三匹、誰の子かしら。この子たちには鈴がない。
 階段下りるのに、時間がかかったのね。

 ちりちり、ちりん。
 みんながわたしをとり囲む。
 わたしは首を起こして、きょろきょろ。何がはじまるの?
 さっきのひとは、わたしの左。黒豹さん、あなたが連れてきたの?
 「みゃあ」
 わたしも、お友達よね?
 にあーご。
 「みゃあう」
 ひどいこと、しないよね?
 「みゃああ、ひゃっ!」
 冷たいっ。
 何かが顔に降ってくる。胸にも。下腹のあたりにも。
 「きゃっ、きゃうう、きゃん」
 くすぐったい、くすぐったい、やめてやめて。
 猫たちがいっせいに、わたしのからだを舐める。
 ぽたぽた、ぽたぽた。
 これはミルクね、すごく冷たい。ごはんの知らせに集まったのね。
 でも、お皿に溜まるまで待って、待って、よお。

 さっきから、わたしはからだをよじりっぱなし。
 でも、みんなぜんぜん気にしてくれない。
 こんなに声をあげてるのに。
 ぺろぺろ、ぺちゃぺちゃ、ちりんちりん。
 みんなはお食事、わたしは運動。鳴ってる鈴は、わたしのだけね。
 耳元でごろごろ音がするのは、首筋を舐めてる虎さんの喉。
 ああ、ああ。
 黒豹さん、そこはすごくくすぐったい。むかし、脇の下だったとこなの。
 ペルシャのひと、そこもだめ、お願い。脚があったとこは、内股の肌なの。
 そんなにされたら…。
 三毛のひとの舌が、乳首を撫でる。
 ああみんな、みんな、もうやめて。

 だれなの、そんなところを舐めるのは。
 ああ子猫たち、わたしの、恥ずかしいところに群がって。
 ミルクが毛の間に溜まるのね。
 おなか空いてるの、わかるけど、あああっ。
 そこはだめ、だってば、ああっ。

 ああもうわたし…。
 むかし一度だけ、イっちゃったことある。
 自分でやったの、一度だけ。
 あとで少し怖くなって、それっきり。
 そのとき使った指先も、力が抜けちゃった両脚も、今はゆらゆら、瓶のなか。
 思い出といっしょに、ホルマリンのなか。

 もう、からだに力が入らない。
 イきそうになるのに、イききれないの。
 ちょっとだけ強すぎたり、弱すぎたり。もう少し右だったり、左だったり。
 冷たいミルクのぽたぽたが、あと少しのとこで邪魔するの。
 ぺちゃぺちゃ、ぺろぺろ、ぺちゃぺちゃ、ぽたぽた。
 気持ちいいの、もどかしいの、頭のなか、真っ白。
 わたしには腕がない、脚もない。お皿の真ん中で、ただもだえてる。
 みんなのおなかが、いっぱいになるまで。
 
 


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