1 わたしのなまえ
雑踏の中、彼は本を読んでいる。背中越しに、彼の体の暖かみが伝わってくる。私は、彼の温かさを背中に感じながら、道を行き交う人々を見ていた。活気にあふれた、猥雑な、エネルギッシュな街の風景。こうして外に連れ出されるのは、せつない。他の人たちとの違いを思い知らされるから。
私と彼は、二人でベンチで時を過ごしている。けれど、私に気づく人はいない。私は、いない人間なんだから……。
汗ばんだ肌をぬぐいたいけれど、今の私にはそれもできない。足を組んで姿勢を変えることすらも。私はじっと街をいきかう人々を見つめ続ける。いましめられた体をよじらせながら……。
たまに、私に目を止める人がいるが、それだけだ。その視線は私の後ろ、彼に移ると、納得したかのようにうなずき、立ち去ってしまう。でも、それだけのことですら私の胸は切なく高鳴る。
手も、足も私を守ってくれない。私のからだはただ密やかに、誰にも気づかれずにここにある。私は人々の無関心の中の、ごくまれな私への視線に自分の胸を抱きしめたくなるようなもどかしさを感じる。見られている……!もちろんそんなわけはないのだけれど、その感覚は私を熱くさせる。私の胸の膨らみは重たげに揺れ、その頂点の小さなつぼみは、頭をもたげ存在を主張する。私のむき出しの肌はうっすらと汗に湿り、むせ返るような若い雌の匂いが立ち込める。
思わずからだをよじった私は、下腹部にせつなさを感じた。そういえば、トイレに行かないまま出かけてきてしまったのだ。尿意というのは、気づかなければそれなりに持つものだが、いったん気づいてしまうとがまんしづらいものだ。私は自分のうかつさに唇をかんだ。
私は雑踏の中、肌を汗でぬらしながら身悶えていた。できれば、家に帰りつくまでがまんしていたい。そう思ったのが裏目に出てしまった。
むき出しの肩が、背中が熱く火照り、胸の双丘は重たげにゆれる。かすかなうごきにも尿意はすこしずつその水位をあげていく。この人々が行き交う雑踏の中で。誰にも気づかれぬまま、私の羞恥はすでに引き返せぬところにまできてしまっていた。
「あ……」
風が私の熱く火照った肌をなでる。産毛がザワザワとざわめくような快感に私は震える。じいん、と下腹部の奥の器官が限界が近いことをしらせてくる。この街の、人通りも盛んな街の一角で。私は胸を、腰を、そして恥ずかしさのかたまりであるこの体をむき出しにして、人知れず尿意をこらえる。
私は恥ずかしいことに、ただこれだけのことにすら発情しきっていた。誰も、私に気づく人はいないのに。このむき出しの肌に気づく人などいないはずなのに。
「どうしたの?」
彼の優しい声。そう、彼だけは私に気づいてくれる。私を知っている人。私はくぐもった声で彼にお願いをしようとした。
「あの、あの……」
「どうしたの?」
私は言葉につまった。だって……。
「いってごらん?」
彼はいつもの優しい口調で私をうながす。彼をごまかすことは、私にはできない。
「うん……。おトイレに行きたいの」
背中越しに彼が笑った。
「大丈夫。そのまましてごらん」
そのまましてごらん。その言葉は私を揺さぶった。そのまましてごらん……。ソノママ、シテ、ゴラン。ソノママ……!その瞬間を想像した私は頬や耳から火が出るのではないかと思うほど真っ赤になった。全身の肌が燃え上がるような、いてもたってもいられないような感覚。じゅわ、と体の奥で熱い液体が染み出してくるのがわかった。
私は必死でそれを打ち消そうとする。
「でも、でも、音がしちゃうもの」
「大丈夫。僕にしか聞こえない」
彼はこともなげに言い、私は焦ってさらに自分を追いつめてしまう。
「でも、でも、匂いがしちゃうもの」
「すぐに消えてしまうよ。誰も気づかない」
私はすぐに追いつめられてしまった。そのとおりだ。彼しか気づかないだろう。彼は私を追いつめるのが上手で、私はそれから逃れられたためしがない。
「でもでも、恥ずかしいもの。とっても恥ずかしいの」
私は甘えるように言った。こうなってしまった私にとっての唯一の選択肢。でも、彼は許してくれなかった。こちらをむいてこつん、と私をこづく。彼の笑顔をこんな時でも、すごく優しくて、私は困ってしまう。
「大丈夫だよ。僕がいるから」
そう言われてしまうと、私にはそれ以上抗うことはできなかった。
「うん、わかった……」
私は体の力を抜いた。あそこに意識を向け、すでに一杯になっているはずのダムの水門を開けようとした。ん、ん……。私ののどの奥で空気を飲み込む音がする。でも、できない。当たり前だと思う。だって、目の前では沢山の人が歩いているんだもの。こんをな一杯の人の前じゃ、おしっこをするなんて、恥ずかしすぎる行為だと思う。
人々の目の前で、湯気のたつ水溜まりの上で、震えているだけの私。逃げ出すこともできずに立ち尽くす私に注がれる視線。好奇と、蔑みと、そして憐れみの目。ひそひそと、人によってはかなり大きな声で私のことを口にしている。
私は耳鳴りがしているようで、彼らが何をいっているのかはわからないけれど、そのざわめきは私の体に染み込んで、わたしを変質させていく。その空想は非現実的なくせに圧倒的な迫力で私を圧倒する。
「どうしたの?」
彼が文庫本を閉じ、私に向き直った。
「うん……できないの」
「出ないの?」
彼の声はすごく優しい。でも、すごく意地悪。
「だって、こんなにいっぱい人がいるところじゃ出ないもの」
「でも、したいんでしょ?」
「うう、したいけど……」
耳元で彼の囁く声が、私の耳にしみこんでくる。
「がまんすることなんてない。してごらん?ここには僕しかいないと思って」
彼の声はますます優しくなり、私はそれだけでとろけてしまいそな気持ちになってしまう。その上に、彼は私をなでてくるのだ。私はもうぞくぞくとして体を震わせ、彼にしがみつきたくなってしまう。
「あん……でも、恥ずかしいもの。恥ずかしいもの」
「大丈夫といっただろう?ぼくの声だけを聞いて、ぼくのほうだけを見ていればいい」
すでに私の心はとろけていた。周囲の雑踏の騒々しさも、彼の声の前にその存在感を失っていく。その一方で追いつめられた私のからだ。会話の中ですらおいつめられたかわいそうな私のからだ。
「あ、あん、んん……」
浮遊感とともに開放感が私のからだを震わせる。私のからだの奥から吹き出す熱い水流は、かすかな音とともに吸い込まれていく。
私は全身がくずれていくような開放感の中、声を押さえるのに必死だった。一瞬だけ忘れていた周囲の雑踏が私の心をおしつぶす。私を見ている人はいない?不思議な、汚らしいものを見るような目をしている人はいない?かわいそうな、あわれみを込めた目で私を見ている人はいない?
私は目をかたくつむり、全身を震わせながら恐怖におびえていた。全身に吹き出した汗が。私の体のそこかしこを伝い、流れる。うぶ毛を伝って落ちていくしずくの感触すら、快楽のさざなみと化して私の肌にしみこんでいく。
声をおさえるのに必死で、顔をそむけてぶるぶる震えている私。自分の呼吸音でさえも信じられないほど大きく感じられる。見えないはずなのに。誰にもわからないはずなのに。でも、見えてしまっているんじゃない?気づかれてしまっているんじゃない?そんな、そんなこと……!ほんの一瞬だったのだろうけれど、私はくらくらと、脳をゆさぶられるような強烈な恐怖と恍惚感に支配されていた。
そんな私の耳に入ってきたのは、彼の優しい声。かすかにいつもより高揚しているみたい。
「よくやったね。いいコだ。まわりをみてごらん」
「いやっ!恐くて目なんか開けられない」
彼は私を優しくなでてくれた。意地悪だけど、とっても優しい彼の、とっても優しい手つき。
「大丈夫。誰も気づいている人なんかいない」
彼の手の感触に、私は落ち着きを取り戻した。
「本当、誰も気づいてない?」
そうっと目をあけると、先ほどまでと変わらない、街の風景。人々がそれぞれ自分だけの時間にしたがって生きている都会の雑踏。
「本当さ、僕のかわいいシャナ」
彼が名前で呼んでくれた。私はそれだけで涙が出そうになった。彼はいつも優しいけれど、普段は決して私を名前で呼んでくれない。名前で呼んでくれるのは、何か彼の言いつけを最後までやり遂げられたときとか、よほど機嫌がよいときだけなのに。
「う……」
知らず知らずのうちに、胸がいっぱいになって、私は泣き出していた。しゃくりあげる私に、彼はあわてる。
「ご、ごめん。つらかった?」
「ううん、そうじゃないの。そうじゃないんだけど……」
彼は私をベンチから下ろし、手で引いて歩き始めた。オリジナルデザインの大きなスーツケース。それが私の今の姿だ。この中に人が入っているとは、まず思わないだろう。もともと手足を失った私が、なるべく彼に負担をかけずに一緒に過ごすために作ってもらったもの。
中からは外が覗けるが、外から中を覗くことはできない。背中を除いて全面特殊加工のパネルで、私は周囲を見渡すことができる。
私はこのスーツケースの中に隠されて、彼に連れ出されるのが好きだった。少なくとも、好奇の視線や、押し付けがましい哀れみの目にさらされることはなかったから……。
「本当にごめん。君を泣かすつもりなんか、これっぽっちもないんだけれど……」
彼が弁解する。まだ少しうろたえているので、あの完璧なまでに優しい甘い声じゃないけれど、こんな彼も、私は好きだった。
「涙を拭いてあげたいけど、家に着くまで待ってね」
「うん……」
冷静になってしまえば、このケースの中が外から見えるわけはないのだけれど、意識してしまうともういけない。今日は彼の意地悪で服を着せられないまま連れ出されてしまったから、なおさらだ。そのことを考えると、またからだの奥に変な感触が生まれそうになったので、あわててふりはらった。
スーツケースの中といっても、温度調整や換気などの機能が組み込まれ、肘、ひざまでもない私の手足をしっかりと固定できるように作られている。私にとっては乗り物などではなく、第二の肉体といえるほどにからだになじんでいるのだ。
彼は足早に雑踏の中を進んでいく。彼に引かれて、私はその後をついていく。コロコロと、足元のキャスターが路面のかすかな段差を拾うが、しっかりしたクッションのおかげで苦痛ではない。むしろ、心地よい振動にすら感じられる。
耳元から聞こえてくる彼の荒い息遣い。私のために急いでくれているのが、彼の身につけたマイクを通して伝わってくる。私の胸は暖かいもので満たされている。急ぎ足の彼のあとを、一所懸命についていく私。彼の腕をつかんで、ちょっとすねた顔で文句を言うの。私が息を荒げているのに気づいた彼が謝り、肩を並べて歩く二人。そんな昔の情景を思い出し、鼻の奥がつんと熱くなった。